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芸大ワンゲルOB会誌「珍愚留魔」に連載した『ワンゲル史』を順次再掲します。
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芸大ワンゲル史 弘津 友三郎 【目 次】 |
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1 ワンゲル前史(1) 「馬場氏との出会い」 昭和36年のことであったと思う。 5月頃、私が当時美大の教務課といった事務室――今の芸大なら美術学部事務室にあたる――で仕事をしていた時、たまたま馬場君(馬場章夫 現OB会長)が証明書か何かをもらいに来たのであろう、その事務室にやってきた。 例の調子で、これは今もちっとも変わっていないが、蝶を追って比良山を縦横に駆けまわっていて、比良山は自分のところの庭のようなものだと言うことを、声高々に喋っているのが、私の耳に入ってきた。それなら一度私を案内してくれと頼んだであった。確かに彼の家は、比良の北、高島町にあったし、蝶や蛾のことには詳しかった。 6月の下旬頃になって、約束どおり彼の案内で比良山に出かけることになった。古い話で記憶がさだかではないが、多分、江若バスで比良登山口まで行って、イン谷からリフトで北比良峠まで行った。同行者に4回生くらいの女子学生が1名あった。朝の出発がやや遅かったので、リフトを利用して武奈ヶ岳まで行って下山路は坊村への道をとった。 「我が家の庭のように」と言うことは少々怪しかったが、これから以後馬場君との長い交流が始まったし、ワンゲル部ができるきっかけともなった。 また、私にとっても長い間山歩きの中断していた期間があったが、再び山歩きに精を出すことになった。 この時は、暑さにやられて二三日体の調子が良くなかった。 |
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2 ワンゲル前史(2) 「昭和36年夏から秋」 (承前) その年(36年)8月になってお盆が過ぎて、人出が減った頃約10日間かけて十和田・八幡平をまわってきた。この時のことで二つだけ記しておく。 一つは往路京都から青森まで普通列車に乗っていったこと。朝の8時に京都駅を発って翌日の午前11時半ごろに青森に着く。その日のうちに八甲田の南の葛温泉に入るため、朝青森に着く汽車はその各駅停車一本しかなかったからである。他の列車にすればとうしても青森に一泊しなければならないので、宿泊科節約のためである。 その二には、十和田湖の西岸で、銀山の廃坑跡で大量の黒曜石を見付けたことである。銀鉱採掘のときに無用の石としで無雑作にほうり出したものであろう。その後十数年たってその地を再訪したときには、整地されていて黒曜石は見当らなかった。あちらこちら山歩きをしても、地学にうとい私には黒曜石の出るところとしては信州和田峠・北八ノの東斜面の大石川源流ぐらいしか知らなかった。またそこで探してもなかなか見つからないのである。 (ザクロ石) これは和田峠の道路工事の砕石の中で見付けた。ザクロ石というのは研磨紙(サンドペーパー)に使ってある赤い砂がそれで、上質のものはガーネットという赤い宝石となる。 (ヒスイ) 糸魚川で日本海に注いでいる姫川の上流でヒスイを捜したことがある。日本の古代の遺跡から出てくるヒスイはここのものだと言われている。そんな石が容易に見付けられるようなところに転がっているわけのものてもなく、むしろ糸魚川に出て海岸で潮干狩りよろしく、川から流れ出た小石をさがす方がよかった。昭和40年ごろ、一時期ブームで世間が沸いたことがあり、この頃糸魚川の海岸に沢山の人が出て石を捜している写真が新聞に載ったことがあった。 話はもとにもどる 10日ほどといったが、それも一日歩くと一日休むようにしてゆっくりまわった。八幡平尾のあちこちにある温泉の素朴な湯治風景は今も心に残るものがある。過日のパーティー(*1)で黒湯といったのはそこの一つである。秋田県の秋田駒の酉麓にある。 秋10月、当時美大の前期と後期の授業の間に文化祭があって、その期間を利用して尾瀬に出かけた。帰路に裏燧(ヒウチ)林道を抜けて檜枝岐へ出た。十字路を朝8時にたって檜枝岐の宿に着いたのが午後5時で、たっぷり9時間かかったが、その間林道のところでは人一人会わなかった。 この2回の山歩きで、ようやく調子を取戻してきた。また、その頃から、美大の教職員間のハイキングの世話をさせられることになって、月に一度か二月に一度ぐらい日帰りで北山に出かけることになった。 (*1)弘津先生退官記念パーティー |
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3 ワンゲル前史(3) 「芦生 京大演習林へ」1 時和37年 5月末、三美の時に奥鬼怒温泉郷から鬼怒沼を越えて尾瀬に入り、湯の小屋温泉を経て水上に出て谷川岳へと、関東北部を東から西へと通り抜けた。地図の上で関東の奥地にポツンと孤立した湿原鬼怒沼は多年行きたいと願っていた所であったが、この時期全く雪に埋っていて道を捜すのに苦労した。水芭蕉は6月中旬とかで尾瀬よりも遅い。谷川岳は天神平までロープウェイを利用したので何程のとともなかった。 それより先、ハイキングのメンバーの一人であった野崎先生から芦生の京大演習林を通って若狭に抜けて出ようという提案があった。私もようやく調子が出てきたところなのだったので、それではということで腰をあげることにした。はじめは5月の連休のときと思ったが、準備不足で見送り、夏休みになってからということになった。メンバーの選定は野崎先生にまかせて、私はコースの検討をはじめた。現在のような立派な登山地図やガイドブックも出ていなかったときだったので、分からないことばかりであったが、大体の案として、須後の演習林事務所から由良川の源流を遡って、長治谷の作業所に至り、三国岳を越えて若狭側に下るという2泊3日のコースをとることにした。由良川源流には戦前演習林の手で開かれた道があったが、戦後は全く放置きれて荒廃しているということであって、崖は崩れるにまかせてある、橋は落ちたままである、それで踏跡もさだかでないといった話も伝わってきた。いささか不安ではあったが、まあまあ行って見ようときめた。 出発の一週間ばかり前に、京都新聞に芦生演習林の特集記事が3日間にわたって連載きれて、いろいろの情報が与えられて大変有難かったのであるが、その中で演習林の中の危険な生物として、熊、マムシ、ヒルの三者がくわしく解説してあるのである。気にはなったが、いまきら計画の変更もできないので、他の者には何も言わないで通すことにした。 メンバーは野崎一良先生(彫刻)、福田武司君(彫刻4回)、小川陸郎君(彫刻4回)、小林幸子きん(旧姓 田沢 洋画4回)、四方恵美子きん(外国語科非常勤助事)、的場かや子さん(部外者)、もう一人予定していた人の都合が悪くなり、急遽馬場章夫君(日本画2回)に前年私が比良に連れていってもらったのが縁で、加わってもらうことになり、私とあわせて8名になった。役割分担は食料主任が福田(以下 敬称略)、会計四方、テント持ちが馬場であったが、2泊とも小屋泊りとなつたので、3日間重たいものを背負って歩いてもらって気の毒な結果になった。 |
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4 ワンゲル前史(4) 「芦生 京大演習林へ」2 8月5日 京都以外に住んでいる人は、4日の夜は私の家に泊ってもらって、翌5日早朝三条京阪から広河原行きのバスこ乗る。当時は道路がまだ舗装きれていなかったので、広河原まで2時間半ほどかかった。その頃私は夏はツパの広い麦藁帽子を愛用した。帽子の上部こ丸い穴をあけて、熱気抜きの煙突にするのである。貧相なスタイルで見かけはよろしくないが、涼しいのはこれが一番である。ご平日なので広河原に降りたのは、私どものパーティーだけであった。 佐々里峠の上から灰野に下る道をさがしたが、踏跡はあったが薮がきつくて通過不可能。5万分の1の地図には道が書いてあったが誰も通らなくなったらしい。 引返して車道を須後に向う。快晴の日中を車道を歩くのは今と違って通る車は少なかったが、苦行であった。3時間半ばかりかかる。このときから以後3日間、「平地に下りたらまずカキ氷を食べよう」というのが全員の合い言葉であった。 須後に着いて、演習林の事務所に行き、構内の学生宿泊所での宿泊の許可を求める。前以て宿泊の許可を求めておけばよかったのだが、許可がなければテントを張るつもりであったから、予め面倒な手続きはしていなかった。もっとも持参したテントは小型であって全員は寝られないが、真夏で高い山でもないので星の下で寝てもどうということもなかろうというつもりであった。 事務所では初めは渋っていたが、ねばって話し込みようやく宿泊の許可をしてくれた。学生宿泊所は、教育、研究のための施設であるから、それの利用にはその目的にかなうものでなければならないはずである。構内の学生宿泊所たいってみると先客があった。同志社高校の生物班とかで20数名で来ていた。京都から国鉄パスで安掛まで来て、そこで乗換えて田歌まで来て、そこから歩いて来たという。彼等は毎年夏やってきているらしく。演習棟事務所とも顔馴染みのようであった。そこに我々が先客のあるところにいきなりドカドカと押し込んできたというので、引率の先生のカンにきわったのか、先客面してしきりに嫌味を言うのであるが一切無視する。思えば事務所の方でも同志社だけ宿泊きせて、我々に宿泊きせないということもできないので、こちらにも許可をくれたのかもしれないのである。同志社がいなかったら、我々も許可が下りなかったかもしれないと、後で考えた。 夕食には食料係が焼茄子に田楽味噌を添えてくれて、これほどの御馳走を食ベさせてもらえるとは、思ってもいなかったので涙の出るほど嬉しかった。お風呂にも入って、野宿を予定していたのに快適な一夜であった。 |